朝ふと思い立って書いたことが、
先輩に拾われたことに発して今回の記事。
喉は猿にとっての木の枝
僕は自分でも歌は上手い方ではないと思ってるし、安定、というところとはかけ離れたタイプの人間だとは思うけれど
対応力というか、誤魔化すのは得意だと自負している。
体が資本なのはボーカルに限ったことではないけれど、流石に喉が潰れてしまっては役には立たないし、
どれだけ謙虚に見積もっても唯一無二のものだから替えはきかない。
なので潰れるまでは行かない「本調子ではない」ぐらいのときの話に留めるが、
音楽(表現)の正解は必ずしも一つではない、というロマンチックな一般論にもたれかかるとするならば
土壇場でも如何様にも正解を導き出すことは可能だと思っている。
その為には喉をどう使うか/使っているかを理解する必要がある。
猿が器用に木の枝なんかを使って果物をとったりするようなこと、喉もいわば木の枝と同じ。
木の枝の形状、または場面に応じて使い方は変わる。
気の向くままに
気の向くままに、というと身勝手なようだが、それが可能なのだとすればそれはその場で発明し発露するアイデアや活路を適用して活用する判断力に他ならない。
それは何も一朝一夕でできるものではないから、それもまた自分の魅せるべき技術、経験であるとして
いざ対応するためには周囲の状況把握が欠かせない。
より気持ちの良い選択をすることが気の向く方向であると思うから、それはやはり自己満足の域では止まらない。
客観的俯瞰アングル
カラオケだろうが生バンドだろうが、歌と楽器の音は同一線上。構成音の一つである。
人間には歌詞なんかが飛び出して聴こえる分、どうしても感覚がずれ込むのかも知れないが
本来は歌もまたイチ成分として一枚岩になっていないと音楽としては成り立たない。(最近のレコーディング音源は凝り過ぎな気もするけれど)
その為にはタイトルにあるように木の枝である喉をただ闇雲に振り回すではなく、的確に、かつ効率よく使用しなければならない。
そうなれば音楽という状況に限って言うならば「耳」は肝心肝要。空間に散らばっている情報を読み取るには駆使しない手はない。
いわゆる精度というのはそこに生じる。
歌は誰にでもすぐにでも出来る
相変わらず歌は誰にでもすぐにでも出来る、とは思っているが、深みを与えるにはそういう色んな既成概念を変えていくことが肝要と思っている。
「感覚」というと曖昧な印象に聞こえそうだが、実際のとこそれは敷き詰められた知識に他ならないから
言葉にこそ置き換えられなくとも「こう来たらこう」というような経験則には必ずしも根拠がある。これはそうそう裏切らないなと感じる。
この「歌は誰にでもすぐにでも出来る」というのはある意味、他の楽器へのアンチテーゼでもあって、
歌は誰にでも出来ても、他の楽器演奏はそうはいかないと思っている。
喉は日々の生活で生まれたときより扱っているから、その感覚というのは誰しも同様に培ってきている。
しかし楽器は持とうとしなければ持たない。知ろうとしなければ知らないもの。勘でどうなるものでもないから、それが歌とは異なるところだ。
それらをまるで神経が繋がったかのように扱えてこそ、耳で聞きながら他に同調出来ようなものではあるが
その場で持ったばかりの人間がすぐにでも、とはいかないだろうし、その演奏がままならないようでは「音楽」としては成り立たないだろうと思う。
歌はコミュニケーションの派生
歌はコミュニケーションの派生。それは楽器もそう。全般にも言えることなんだと思うけれど、
人の話、意見を聞くってのはコミュニケーションの基本だ。
更にはそこに自分の意志を伝えるような行動も大切。必須であると思うから
それを応用してみれば当然音楽を嗜む上での基本に当てはまるのだなぁと日々感じる。
音楽性より人間性、というのが仕事に成り代わる前の音楽人には強い観念。
しかし、音楽性もまた人間性の一部であると思うから、そこは切り離して考えるのもおかしいんだろうなと思う。
メンバーが寄り付かない、いい音楽になっていかないというような活動が続くのであれば
それはもしかしたら自分自身に問題があるのかもしれない。
知識や常識も大事ですが、何よりよく耳を使って、その心で感じ判断するような音楽をしていけば
自ずと人に響くものが出来上がるんじゃないかと僕は信じています。
喉(自意識)より耳(協調性)。アカペラでもない限り、ソロ活動もまた楽器との対話が必要だし
人間関係に似た活動であることを考えると、一石二鳥ではないでしょうか。そんなことに繋げたい記事でしたが
ちょっとボヤケてしまいましたね。また書きます。