ユーチューブなんかを見ていると見かけるサムネイル画像
そのリンクを飛んだ先の情報を簡易的に小さく表示したアイコン的な画像のことで、得てして画質が荒かったりする。
ネット社会と現実社会
お互いの影響し合う様を見るに、もうここまでくるとどちらが偽物、ということもないように思うから
こうして言い変えるのも強情な気がしてしまうけれど
「自分はこんなはずじゃない」などと、驕りとも謙遜ともとれる精神でもって
誰しもがネット社会を架空の世界に”したがっている”ように思う。
よくも悪くも真実
ネット社会ならば誇張した表現、誇大的自演も出来そうだ、と思うのが一般的ではあるが
それが出来るか出来ないか、というところには本人のポテンシャル、知恵、覚悟がなければ成り立たない。
誰にでも出来そうなこと、をやるかやらないかの差。しかしその差がとても大きくなる
脳みそを具現化するようなことなのだから、そのイマジネーション、虚言センスには人を翻弄するだけのズル賢さが備わっているということ
それは夢を描き、架空の世界で人々を魅了する芸術家のみならず、あらゆる金策を打ち立ててきた厳格な企業もしていることである。
プロパガンダってなんだ
いや何もそこまで大げさな話ではないのだが、この穏やかな国、日本に於いても情報統制とまではいかないまでも
集団意識のようなものは著しく操作されているように思う。
それはテレビメディア、マスメディア。最早SNSに至るまで、流行り廃りの波には皆、相変わらず敏感、というか純粋なように思うし
知らず知らず足並みを揃えて一部の人間利益に還元されていたりする。
僕は単純にそういう情報に疎いので、しばしば皆の顔の向きが一斉に向こうを向いたりするのを、目撃する。
決しておかしなことじゃない。ネット社会の繁栄により、その派閥が以前より統制出来なくなっている、とは聞くが
それでもやっぱり人間もまた群れていたいものなのだと感じる。現実社会となんら変わらない。
頭が良い。でもやっぱり体がイイ
ネットのやり取り、というのは通話から動画から写真から多くのパターンが適うものではあるけど
わかりやすく隔てるならば「相手が目の前に居ない」という不都合を無視して行える、というところだろう。
「それで十分、リアルはクソ」というところまで自身を補えている精神を鍛えている人は、もしかしたら新人類のようなものになれるのかも知れないが
僕は未だに「やっぱり会いたいなぁ」と思ってしまう。
正直、ネットでも情報だけならば伝えたいことはある程度まかなえる。しかし未だ、体温やニオイも感じれないし、最近では肌の調子もフェイクが利くので体調なんかも見えづらい。
かと言ってその
嘘もフェイクもまた真実。それを「吐き出そう」というその人の心理や行動パターンを目撃できると言うのは、なかなか現実社会(ここまでくると違和感のある言い方)では難しいのではないか。
コンプレックスのようなところ、弱いところが垣間見えやすい、という点でその人のことをより知れる角度だ。
「知りたくはない」かも知れないが、それは紛れもなく現実だろうと思う。
サムネイル画像のようなもの
伏線を回収してどんでん返しのような展開にしてみたけれど、賢明な読者の皆様ならお気づきかと思う。
「現実社会」こそがサムネイル画像のようなものではないのか、と僕は言いたい。
男女交際、または同性交際をされたことのある方なら察しがつくかと思うが、得てして1人の人にアクセスをしていく段階で、いくらかのカルチャーショックがあったりするものだが
最近のネット社会には、本来そこで得られるような「打明け話」が先にネタバレしたりしている。
思春期の頃にこれら一切を読破してしまった日にはいわゆるユトリからサトリに変貌しかねない情報量。そしてそれは本来、個人個人の観点、経験則の枠内で収まってこそ整合性の成り立つものばかりであるから
まるで複数の薬を服用したときのような副作用が発生して精神を乱すことと思う。
しかしそれは個人個人の軌跡、奇跡を継ぎ接ぎにした不完全な情報で、それらを管理し得る精神さえ本人が持てれば(それが難しいんだけど)何も怖いことはない。
サムネイルの、荒い画像はまるで抽象画のような表現であるから、それをどう感受するか、で「素晴らしい」とも「わけわからん」ともなる。
足りない情報、隙間のある情報をどう補填し想像するかでワクワク出来るのが人間の良いところ
そしてまた子犬のような冒険心をもって、「自分の真実」を目の当たりにして恥ずかしげもなくSNSに伝えていけば良いと思う。
それは真実であって、真実でない。先ずはリンク先に飛んでみることだろうなと、そういう話。