家族に於いて
バンド内に於いて
「手加減」をするクセがついている。
これは独特な感覚なのだろうか
兄や親父と喧嘩になったとして、自分は殴られたとしても殴り返すことは、誰に言われるでなく自分にとってタブーだった。
「兄は弟より強いもの」これが何でか昔からある。
それをもしなんかの拍子でひっくり返すことがあるなら、それは何か、とても大事なものを壊してしまう気がしている。
「自分が自分が」と、バンドのアプローチとして考えていくと、これもタブー。バンドである必要性がなくなると感じている
これは言い訳としても存在するけれど、彼らがいるからやらないでいいことを敢えて残すように意識する。
そうでありたいからそうする。
勿論、自分が手加減なく駆け抜けたとしてもそれに負けないアプローチで攻めてくるようなメンバーというものを考えなかったわけではないが、
果たしてそれがいいものになるかな、と考えると、それは余り期待できない。
各自に役割を担うことで、自身の存在を肯定することが叶うというのは、主観としてもそうだと思う。
それはどの組織に於いても
仕事をしていても同じこと、同僚は勿論、後輩や先輩に仕事を残すことは
永い目で見ても必須。流れの中で自然と考えられるくらいには当たり前にしていきたいことだと感じる。
もはや具体的に言う必要はないかも知れないが、後輩は無論仕事を伝達伝授するべくしてやらせる。後のパートナーであるのだから、筋肉をつけてもらわないと仕方がない
先輩に仕事を残すことは、一見怠惰のようであるがこれも大事。コミュニケーション、連携と共闘感。「先輩さすがっすね」という気持ちは、互いのモチベーションを保つに良い感覚だと思う。
一連托生と言ってしまえばそれまでのことではあるけれど、
噛み砕いてひも解いてみなければ、ふと煩わしくも思えるこれらのタブー。僕は何だか小さい頃から感じている
特にこれといって愛想も良くないし、仕事も出来る方ではない僕が
未だに古い仲間や知人に仕事を振られるのはこういう意識のところにあるのではないかと最近思う。
気合の入っているときは、とにかく相手のモチベーションを上げようと(伴い自分もあがる)喋り倒すので、僕と仕事をすると楽しい(うるさい)だろうなと思う(?)。
サボタージュも冗談も
クソ真面目にやるだけの能率効率主義では続かない(と思っている)。
ユーモアも弛緩も、適度に挟みこむのがベター。
元々クソ真面目にしか出来ず、尚且つその退屈な自分に悲観してきた僕であるからこそ強く思う。
結果を見てもプロセスを見ても、一人きりでやるより気持ちのいいものになるから
テリトリーというのか、役割分担を意識した組織というのは、1つの脳みそで稼働するスーパーな生き物。超人のような塊になる。
音楽的にいうならグルーヴ。
これがノリに乗ったときには、掛け算ですら足らない成果を生み出すから馬鹿にはできない。