起きたときに「今日何する日だっけか」とポカンとすることがしばしば、森 壯太です。
気づけばすっかり安心し切っている。
昔は大嫌いだった渋谷というところの話。
今では地元よりも勝手がわかっている気もする。
それもこれもバンド活動ゆえに
プライベートとしては殆ど用がない、というのもまた面白い話。
ライブかリハーサルか、バイトの帰りか。いっとき近くに住んでいたこともあって
あそこのドンキには世話になりました。
いざ過ごしてみれば「渋谷の人間」というのは流動的。あんまり渋谷にしかいない人間、というのはいないのだなぁという印象。
常によそ者が訪れては街を形成しているようなイメージがある。
なので渋谷の色、というのも日々変わる。
ゆえに無責任な
ある種お上りさんなどは、渋谷という場所に夢を見たりもするのだろう。
そうしてお上りさん同士かち合って、夢のような空間を信じて信じて、何なら形成していく。
面白い話だと思う。ドラゴンボールでいうなら超神水のエピソード。
それを飲めば超常的な活性が見込まれる、という嘘を信じて、切磋琢磨するうちに実力を伴う、というような
実体のないところから実体を得る。そんなことが往々にして巻き起こっているんだろう。
得体の知れない友達
そんな人たちも増えた。地元をでて、渋谷に来て
一応東京育ちではありながらよそ者である僕とも出会い、互いにそれほど語り尽くしてはいないながらも
フィーリングというのか、信じ合えているような仲の人たち。バイト仲間、バンド仲間、箱の人、お客さん。
小学校の頃どんなやつでした、とか今までこんな恋をしてきました、とかどんな漫画が好きで、どんな仕事をしててとか
知らないままの人たちも沢山いる。でも何でか話題にはならないのは、必要じゃあないからなんだろうけど。
渋谷をプラついていたら、示し合わさずともすれ違ったりする。
昨日(5/10)もMEJIBRAYというバンドのローディーをやっている子と数年ぶりにすれ違った。
横断歩道ですれ違って2、3秒ガンを付け合うようにして「ハッ」とした笑。
ぱっと見ヤカラだが、相変わらず気のいい子だった。
出会い方というもの
不思議なものだが、今日になってMEJIBRAYさんが活動休止を発表したそうな
こないだのGrand stand然り、虫の報せというよりは何だか具体的な報せだが、
彼と出会ったのはバンド界隈でのそれではなくバイトのときだ。
ジャンル的にも交わりそうにないところだが、そういう出会い方をするとまた関係性というかは大きく変わる。
わかりやすいのが、お客さんの中にはたまに昔のバイト先の後輩なんかが俺の知り合い目当てでライブに来ていたりする。
そうなったとき、どうしてもバイト先の後輩感、印象は拭えない。ちょっと気恥ずかしいし、遠慮もしてやれない
それが当たり前だとしても、しみじみ、不思議なものだと思う。
直感的なものなのか
何なのか。
イチお客さんとなれば、存分に丁寧に満足を促したいと思うけれど、
イチ知人となればそれとなく愛情をもって雑に扱う
どちらも同じ条件にすべきだとは思えど、これはなんとも反射的、直感的。
これってのは相手が求むる最良の手段をとっているわけではなく、飽くまで僕のセンス。
あんまり考えて行えてることではない。優先順位というものが純粋なお客さんに向いているという話だが、
ふと果たしてこれは正しいのかと迷うこともある。
ボーダーレスでピースフル、某兄さんたちのイベントのようなことを言うようだが、
音楽というのはそうあるべきだ。
渋谷という街とまるで似た、流動的な環境であるライブハウスという場所において
確固たる自分を築こうと思うのもまた、実体のないところに生まれる実力なのだろうか。
世界の中心はいつでも自分自身、そうあなたも私も
ここが1つ正しさを感じられたら、きっと全て上手くいくんだろう。渋谷という街を紐解いたときに感じられた安堵感のようなもの
第一印象、もとい印象の操作。これを世界全体、物事全てに適用できたら、きっと無敵だ。
嫌いもきっと好きに出来る。自在に