それ即ち心を伝える術であり
生き物の基本的コミュニケーション。
そしてそれが技術として特化したものが「歌」であると僕は思う。
呼んで頂けるということ
世間でいえば僕は無職。
これは抗いようのない事実だ。
ここに至るまで何をしてきた、と自問自答して見回しても、これと言った証拠もなし。言葉は返せないのだけれど
ふとしたときに感じられる「歌」へのこだわりや、成長を感じて。
少なくとも歌に捧げてきた時間は人一倍であると認識できる。
これはとっても有り難い。しかし朧げではある。
たくさん試行錯誤をしてきた
なぜ歌うのか。
何を求められているのか。
どうすれば伝わるのか。
大きくとらえてこの3つ。
先ずは主観的には、なぜ歌うのか。
そして更にはその発展と向上。
この3つを繰り返して繰り返して、未だに終わりは見えないし、恐らくは終わらない。
音楽を必要としない人間もいる中で、歌はなぜ発生したのか、なぜ歌うのか。
自然発生した衝動を敢えて分析する。
言ってしまえば野暮である、しかしそうせざるを得なかった
境地は無心
そんな昨日、5月4日は公私ともに親しくしているシンガーソングライター「吉田司」の結婚披露パーティーへ列席。
僕のツイッターを見ていた方がいるなら一度は目にしたことがあると思われる、ほぼ全方角からの話が共有できる大親友である。
かれこれ永い仲である。アマオト全員で義務というか、必然性すら感じるレベルで参加で出られる席というのも彼ぐらいのものではないのかと思う
兼ねてより、それこそ、僕が知り合った頃にはお付き合いされていた方との婚姻を結ばれたとあって
こんな安堵感のある式に参加したのも稀に思う。
既に、10年という永い年月を共にされたという伴侶。音楽生活を見守ってくれた方。
音楽生活をしばしば、苦に感じたときには、きっと支えになってくれたに違いない。そして堪え忍んでくれたに違いない。
美しいですよ。
心の底から参加出来ることが喜ばしい。更には余興として歌唱の依頼を頂けた。
こんなに嬉しいことはない。
シンプルな理屈
なぜ歌うのか、が歌いたいから。歌いたい言葉や心があるからという
原始的なところに落ち着く。
本来、祭りや祝い事に発祥したであろう「歌」というものが
あるべき姿に還るような。そんな気分であった。ただ、そのお二人のためだけに歌う。お二人だけのために歌いたい。お二人のためだけに歌っていい。そんな場面。迷いなく。
心というものは目には見えないし、触れられない。
「祝いたい」「めでたい」という気持ちを全身を震わせ、身振り手振り伝えられるということ
ときに正確に。ときに大袈裟に、意図したところに手渡せること。人前にで臆さず、誰かの代わりにその役目を担えること。
その技術を磨いてきた自分が誇らしくすらある瞬間でした。
そして肝心なのが、友のためであること。ためになれること。その友のために歌いたいという気持ちが心の底からあるということが
何より嬉しいのでした。
人生に数回、あるかないかの貴重な機会。
有難う。
そしておめでとう。
僕も大好きなこの歌が、昇華される日が来ましたね。