如何なる時でも強くあれる人などいない
自分が弱いと自覚するのはまぁ良しとしても、それに対して誰かを比較したときに
「あぁあの人は特別なんだ」と思い込んで、無意識に人を頼り過ぎることは危険だと感じる。
敬意とするなら聞こえは良いが
すべからく、繁栄を築き上げる人たちは努力の天才だと云われる。僕の足りない歴史の上でもそんな人ばかりだ
流行りに持ち上げられただけの人間は、味がなくなったガムと同様、呆気なく吐き棄てられる。
口寂しいのかはわからないが、甘えていたいのかはわからないが
どうしてそうも相手を神格化してしまうのか。どこまでも同じ人間でしかないのにだ。
想像する
その人もまた自分と同じように悔やみ、悩み、ウジウジしていることを知るべきなのだ。
夢を見るのはいい、それで歩いて行けるならいいけれど、夢を”夢”と呼ぶ以上、それは夢じゃないか。
手を触れる勇気もなく、真実を明らかにするつもりもなく、何を胸を張っているのかわからない。
弱いも強いも、自分が選んで演じていること。
かの人は、強くあることを選んだに過ぎない。
お婆ちゃんがお婆ちゃんを自覚して、徐々にドドメ色の服を選んでいくように、誰に言われるでなく人は自分のキャラクターを演じる。
ブスがブスを演じてどうする。現代に氾濫してるイケメンの殆どが雰囲気だ。しかしその自意識がよそ様の精神にすら影響をしているということだ。
そのやり取りに、観客で居続けるのか。
人を蔑んでみるときにはその鏡面の向こうで、自分も見下げられていることだろうと思うべきである。
今そこに発生している矛盾、異次元に気付くべきだ。
現状に満足しているならそれでいい
実情を正しく認識しての行いならば、それはもう開き直ってて気持ちがいいけれど
気付いていないのなら、それは怪物の子供。その認識のズレを放っておけばきっと立派な迷惑を生む
五里霧中の孤立無縁じゃ助けも呼べないから
自分の居る場所、行為の実態は、誤解なく認識していたいものだ。
一歩一歩、踏みしめるには足と、地面が要る。