人として扱われない。
そんな場面に出会ったら、という話。
性善説
僕は性善説を信じてはいない。
各々の正義は、各々の環境に於いての利害によって極められる。
親は子を守るためにはモンスターにもなる。それは否めないし、それはそれでいいと思う。
それに至れず、自分を守るために躍起になって子を捨てる人もいる。
聞けば、そうなるべくしてなった筋道があったりするものだから、
世の中には不条理などあまりないのではないかとすら思う。
運悪く、その正義の対角にいてしまったときには、観念するか対立するか選ばなければいけないと思っている。
必死に生きている
皆が皆、必死に生きている。
牙を剥かれても、そう感じてしまえば多少は寛容になってしまう。緩衝材のように。
それぞれに利があるがために、削り合うような状況も生まれる。
今日の記事はこれを最低限に抑えられないか、というような提案である。
人間の振る舞いをしていない
現代で働いていれば、人を扱う側、扱われる側のどちらかに属することがあると思うが
その両方を行ったり来たりする際には「人として扱われない瞬間」の原因が仄見える。
相手が人間であることを忘れてしまうような空気、存在感。
これにあえなく流されている自分に気がつく。
こちらが相手を”人として扱っていない瞬間”もそうだが、扱われていない瞬間にもハッとする。
それは喜怒哀楽の欠如。無機物のような気配がそうさせる。
そして、それを求めてしまう現場の空気は残念ながらある。
互いにそれが都合よく、僕のような人間は”恥ずべき(主観判断)末端の仕事”に就くことも多くあるため
どれだけ相手の印象に残らないか、と苦心した試しも多くある。
不毛を生やす
しかしてそれ、その態度、関係性をエスカレートさせてしまえば不毛なやり取りまで招いてしまう。
無機質な態度というのは、相手の苛立ちを煽ることもあるものだし、
それによって健全な扱い、務めを受けないまま場が滞ることもある。
そうなればいっそ、先程言った”恥ずべき末端の仕事”などという自我こそかなぐり捨てて、
イチ人間として振る舞うことがやはり一周回って合理的であると今の僕は思っている。
「生意気な」と感じるような上司もいるだろうが、それは業務進行上に於いては瑣末な問題
各自が責任を持って作業に当たる意識になるのならば、それが一番なのは勿論であるし
こう書いていて「そりゃそうだよな」と、恥ずかしくすら思う理路整然をなぞっている気分である。
まとめ
今回は職場に於いての状況を例えに使ってはみたが、
これは人間関係全般に言えることだと思う。
特に僕の主観からしてみると、バンドマンとお客さん、更にいうならばスタッフチームの関係にある白々しいタブー、境界線のようなそれらも
わざわざ不毛な疑心などを生み出すようなことをしている気もする。
恋仲、友愛、スポーツ、家庭に於いてもそうだろう
我関せずと白けていれば事態の改善も見込まれない。
皆が皆、イチ人間としての存在感を放つような仕事、責任を負って暮らしていれば
余計なものは淘汰され、よりスムーズなストレスフリーな人間関係が築かれるのではないかと期待してやまない。
“踏み込まないでねここからは”
そんな不気味な人間関係を嬉々として心のど真ん中に受け入れてしまっていては
きっとその心は晴れないだろうと思う。