朝の閃きを参考にする記事。
不公平、という言葉が僕はあんまり好きではない。
アンフェア
世の中は不公平が先ずのスタートライン。そこを突いたところで、世の中に落とされた人のすべてがプレイヤー
それは親ですら、迷える子羊のように手探り闇雲の素人。
誰に責任追及を出来るってんだって話で。「当然の権利」とかってものを
スポーツや国だなんだのやり取りに限らず、アナログな、極親しい仲にも適用させようとするマニュアル人間なんかは
嫌いを飛び越えて呆れる。
ねだるな、勝ち取れ
これはかの有名なアニメ「エウレカセブン」の名言であるが、これに尽きる。
鳥の巣のパクパクじゃないんだ、いつまでも誰が世話してくれるわけもない。
離れていったからには何か理由があるか、理由がないことが理由で
それを確かに解析するには自分が、自分自身が目を見張って判断するような自律した神経が立つことは必須。
誰かに則していれば必ずしも報われる、そんなレールはいつかから誰かが努力して努力して無理からにようやく作り出した夢の産物だということを忘れてはいけない。
何故、それに初めからあやかれると思うのか。
十人十色
十人十色に八方美人。あと二方足りない。
そもそも公平に振る舞うことが即ち正義なのか、そこが問題だ。
目の前でそういう不平を見せて、心に歪みを生んでしまうようなことは想像に易い、それが怖い、それでもやっぱり
当てずっぽう、闇雲のテンプレート、コマンド入力じゃあいけないって思う。
現代にしばしば求められるような万に対する、万に満遍ない善意なんてのは不自然だ。
アレルギーというものもあるくらいだから、相容れない関係というのはある。それは時として絶対的、一方的に。
迷ったときは、正義の味方に固執せず、味方の味方になればいい。
僕は贔屓をする
不公平だと言われようが何だろうが、僕は贔屓を否定しない。
個々にある特徴をよく観察してみれば、それに合わせて向かわせる自分の形は一辺倒ではいけないと感じる。
話も合わせるかも知れないし、敢えて合わせないかも知れない。
隣とは違う対応をされたことに憤慨することすら予測できるぐらいにその人を見て、その人に適切と思う対応をしたいと思う。
冒頭にあるように僕らは誰しもが末端のプレイヤー。確実な正解はわからない。だからこそ思考する。考察する。神様なんていなくていい
各自の信念で動いて、司るような責任感を持ってるぐらいが丁度いい。
それで擦れ合って、馴れ合って、互いの形を確かに知っていくようなことが
大事なんだと思う。