窮鼠猫を噛む、ということわざがあります。
最近では人気のバンドさんにも引用された名前の方々がいます。
追い詰められた鼠は猫ですら噛む
人間の思い込みだとは思うのですが、猫は鼠の天敵というキャラ付けがいつだかから確立されています。
トム&ジェリーやドラえもん。ミッキーなんかもそうなんでしょうかね。
そんな天敵にすら、追い込まれてしまえば牙を剥くよ〜というようなことわざですね。
想像にも易く、まぁそうかも知れないと
実体験の中からもそんな気はしてくるのですが、現代日本は平和。自覚はまだまだ足りないように思いますし
他の国の話を(メディア越しとはいえ)聞けば聞くほどに、平和なんだなぁと思うわけです。
そうなると、中々限界まで追い詰められる、ということもないんですよね。
限界を考える
人間、というか動物の限界ってものが何なのかと考えたときに、わかりやすいのは死亡することですが
自殺願望を”願望のまま”とはいえ所持する人すら多い飽食の国に於いて、それはそれほど効果はないように思えていて(想像力の問題で)
おそらくは、本当のギリギリ、トラックが目の前に全速力で突っ込んできても尚
実感に及ばないような麻痺っぷりをしていると思うので、死亡を仄めかしてもまだ、人(日本人)の限界を超えるような効果は得られないんじゃないかと考えます。
窮人、神を噛む
ような。そんなような行為に移行する原理は何でこそ生まれるだろう。
お金か。名誉か。情か。憧れか。
自分の培ってきたようなイメージや、立場、精神の崩壊を省みることもないくらいに激昂するような出来事は何だろう。
日本人のことですら、想像の域を出ませんが、
僕が考えるにはきっと、わかり易く極手前の、小さく痛みを伴うようなもの。虚仮にされるような行為には反応するんじゃないかと思います。
平和ボケ、というところからしたら寧ろ「死」というのは少し遠すぎて実感に至らないけれど、皮膚が切り裂かれる程度の痛みには敏感なのかもなぁと思いますし、
存在全てを否定するような雑な罵倒ってあると思いますけど、それよりは「生理的に無理」というように個対個として拒絶するようなミニマムさが効果を発揮するようにも思います。
名誉、というのも少し大袈裟なんですけど、尊厳というか、人権というか、そういうデリケートなものには現代人はやたら敏感な気がしますね。
そう考えると「猫に食われるかも。食われるくらいなら噛み付いてやる!!」というような捨て身の行為に至るには、
案外薄皮ぐらいの、表面をガリガリしたときにこそ反応があるのかも知れません。
っていうのも
僕という人間が今、恐らくは下の下、底辺中の底辺にいる気がしているにも関わらず
それでものうのうと、どこか他人事のようにして暮らしていることから思うことがあって
「こいつはいつになったら本気を出すんだろう」ということ。
先日お伝えした通り、予期せず恋人が出来た僕ですので、一般的な思考からすれば「就職しなきゃ」「音楽やめなきゃ」そんなことを巡らすのが通常道徳を、通った人間、男性の思考回路だとは感じながら
やっぱりどうしても、そうではない生き方にこそ光を見ている僕がいます。
立派に家を打ち立てて一家一城の主となることに、憧れた試しのない自分です。
理解ある伴侶にブーブー言われながらも、ヒーヒー言いながらも、楽しそうに音楽に勤しむ先輩たちの理想形たるや。
憧れます。
わからない、わかりたくないだけかも知れませんが、その横で微笑ましく笑っていてくれるような伴侶の方がいるような姿が垣間見えて
実に素敵。勿論その一方に限らず、その感謝を返す態度なんかも美しくて。
そうなれば、僕の本気というのは何もそういった世間体の示すような未来に向かうベクトルにはないものだと思うわけで
かといって、相手様の幸せを願わないわけもない…。
僕の本気が、その相手の本気と、重なるように擦り合わせては行きたい
もしかしたら猫と仲良くなれる方法もあるんじゃないか、とか屁理屈をこねて、
へへへと笑いあえるような。そんな未来に憧れます。
まだまだ迷う。未熟な僕という鼠の話。