散々なネガティヴをぶちまけていた昨今、
助けを求めることも億劫に思えてしまうのは日本人だからなのか、森 壯太だからなのか
ただでさえ重たい体に「恩」というものを更にぶら下げてまで、生きて行けるとは思えないよ。そんな風に
「ああ、こうして人は自ずと死に向かっていくのだなぁ」と俯瞰して見るばかりでした。
彼女ができました
ただいまは6月。見返しても4月1日ではありませんから
これは事実です。彼女ができました。
青天の霹靂でしょうか。昨今の僕の様子からすればきっとそうかと思います。でも小田和正さんの言う通り「ラブストーリーは突然に」僕もこんなつもりではありませんでしたし。
何故、アマチュアとはいえ人気商売のようなものをやっとる僕が「結婚」ならまだしも「お付き合い」の段階でこんなことを発表するのか、
その理由は僕がこのブログを始める前にツイッターなんかで広めていたサービス、
(異性との)「フリーハグ」と「出張バンドマン」が今後禁止になる、という連絡にもなります。これは事前にお伝えしていたものです。
1つに「彼女が可哀想」だからです!(日本人的観点からすればやはり不慣れなものですからね)
もう1つは「俺が同じこと彼女にされたら嫌だから!」ですね。うん、この方が合点がいきますでしょ。
(*俺が甲斐性なしなのは承知の方なので、出張バンドマンはもしかしたら許可が出るかも知れません)
ちなみに
アマオトメンバーどころか家族にも伝えていないので、お客様や偶然飛んでいらしたあなたが3番目か4番目に知ることになりました。
1番目に報告したのが以前こちらにも書いた「合コンではないらしい異性との飲み会」に誘ってくれた幼馴染。彼女出来ちゃったよ、ごめん出れないわ、といった内容で連絡しました。(頭数でいいから出てくれ、とのことでした)
2番目に報告したのが5月に結婚パーティーの件でこちらにも書きましたシンガーソングライターであり親友の吉田司。これは何というか「誰かに言いたい」というような心境を吐き出すにとても手頃に感じたからですね。
そして3番目、これは、優劣つけるのは難しいな。外堀埋めていくのも何だかズルいというか面倒というか、
ちょっと悩み始めて小狡さが自分に感じられたのでいっそ「森 壯太に関心のある方」が一番多いであろうここに書かせてもらいました。
どのような感想でしょうか。
馴れ初め
さすがにその方が何者か、は書いていくつもりはありません。何故なら万が一、別れが来たときにその方の元彼、として永遠にウェブログとして刻まれるのはその方にとってマイナスのようにも思えるからです。
僕にいたっては腐ってもバンドマン。表現に躊躇いはありませんから、ラブソングは書く癖に彼女や恋やがないわけはなし、寧ろ発表していくが道。生き様。構いません。
「別れるかも知れないような話を発表しなくても良いじゃない」というのは、SNSなんかでよく見るラブラブなツーショットを上げているカップルを見てヒヤヒヤするのは僕も同じ
現代に於いては、過去に何人の人と交際をしたか、などと言うのは大した話ではないかも知れませんが、流石に横並びで写っているものを見かけてしまえば100年の恋も冷めるのではないでしょうか(特殊な性癖の方以外)。
愛情というのは別れた後にもまた続くものであると思うので、相手の真なる幸せを願うなら、それは後腐らせるわけにはいきません。
しかしそれを踏まえても、片一方とはいえ発表するこれは僕のエゴ。アマオトは既に2人「結婚」を発表した上で活動をしています。僕は前からこれに憧れていました。
吉田司もそうだし、公表していないでも伴侶のいるバンドマンはみんな腰が据わっていて頼もしかった。それが羨ましかった。
僕の書く詞はネガティヴで、僕のするMCは卑屈で、穿っている。この精神がなくなってしまえば、いずれ言葉はなくなって、僕という歌うたいの存在意義はなくなってしまわないか、これにも興味がありました。
僕が絶望の淵にいるからこそ「がんばろう」の一言を素直に聞き入れてくれるんではないかって、共に歩むように感じてくれるのではないかって思うのは今も同じ、しかしそれでは
条件付きのものなんではないのか。そうならそんなもの実力でも何でもないし、そうならそこを足場/自信にしているのは恐ろしいことだから早々に踏み壊したい。
歌詞の中に込めるような「希望に向かえ」というような精神を伝えるには。自身がそもそも諦めたようにいては、これまた嘘になる。自分はてんで希望に向かわない癖に、というようなもので。
幸せになるのは怖い。僕自身が空っぽになってしまうのではないか。アウトプットする砲弾がなくなってしまうのではないか。
彼女をつくることには躊躇いがありました。それは過去記事にもちょこちょこ書いていますね。
でも同時に、伴侶を求めることが人間の幸福のシンプルな例である、ということも散々いってきましたし、どんなに屁理屈をこねてもそれ以上のことを思いつかなかった。
ラブストーリーは突然に
“伴侶を迎えるには、身の回りのことが落ち着いてからだろう。でなければとてもまともなお付き合いなど出来ないし”
“お付き合いする、というのは相手様の貴重な時間、可能性を奪うことでもあるのだから、そう簡単には決断できない”
“お付き合い、とはいえあちらの親御さんに挨拶させて頂く機会もあるかも知れない。大切な娘さんを、少なくとも今、自分の家族にすら顔向け出来ないような心境でいる俺なんかが拘束していいものか”
そんな頭が常々ありました。
僕が楽になる、という一方的な願いであれば、どなたかにアプローチしていく、ということをコツコツと誠心誠意行っていくべき、行動あるのみで叶うことだったかも知れません。
しかし僕は男を磨くどころかクズ街道まっしぐら、未だに生きることについて確固たる意志も持てずにいました。そんな奴がそんな欲目をみれるわけもなく
このまま孤独に死んでいく。これも以前の記事に「独身を思う」というような記事を書いたぐらいで、リアルに心底危惧していました。
誰にも頼れない、頼るわけにはいかない。相談するわけにもいかない。自分との闘い…などと
“孤独”というものを、孤独という言葉を、ここまで強く頭に刻みつけて生きていた時期は昨今が初めてでした(それは歌詞なんかにも如実に影響していました)。
人間、どんぐりの背ぇくらべ
それは希望の言葉としても、絶望の言葉としても機能します。
スーパースターと自分を比べても「時の運」だろうと思うし
ホームレスと自分を比べても「明日は我が身」と思う。本当に。
語弊を恐れず言いますが、僕は「誰と付き合ってもその人を好きになってしまう自信」があるところまで来ていました。
いいとこも悪いとこも、見つけられるし、そもそも人間は”体温”や”会話”だけで本来、心を満たすに足る相手であり自分であると思うからです
そんなことを悟るぐらいには、日々”伴侶のような相手”を欲し思考していましたが、この考え方には隙間があります。
“選べなくなる”わけです。
優位性のないなかで
そんななかで彼女を選ぶにいたる理由がありました。
それは過ごした時間と、互いのダサさと格好良さの両方を見るに充分な機会があったことは勿論ですが
僕のようにAbsolute Terror FIELD(通称ATフィールド/絶対恐怖領域)全開の人間に対して、彼女は臆せず、臆しながらも接しようと努めてくれました。
“僕の”迷惑を省みず多分に声をかけてくれるようなことも多くありました。自分の話もたくさんしてくれたし、僕の話、日頃の隅まで知ろうとしてくれた。それは自然で、普通で、他の誰とも違いました。
“孤独”という言葉を歌詞に使用するに至るほど、頑なになっていた僕には、安心と信用というものが不可欠だったわけですが、彼女の前で気づけば僕は常々気を抜いて生きていたような気がします。
吉田司の次に僕の多方面の愚痴を聞いているかも知れませんね。
そこまでを聞いて、そこまでを見て、何ならこの昨今のブログを見ても、接しようとし続けて踏み込んでくれることをしてくれました。とうといと感じました。大切にしたいと感じました。
しかしそれ故に、暗雲立ち込める自分の未来を考えて、何より自分自身のポテンシャルに目を向けたとき、悲しませたくはないという思いが同時に生まれるわけで、
結局、それとそれが相殺して。何も起こさないようにする日々が続いていたんですが
その気持ちが最大限に高まった瞬間が、ついに訪れたときがありました。ふと。図ったことでもない、図ったときでもない、しかし確実に互いの意図あって訪れた瞬間でした。心の準備は全く出来てはいませんでしたが、
そういうものなんだろうと思いました。
駆け引きというか、状況というかが巻き起こっているその短いインターバルのなかで、考えて、考えて、結論して。そのときに初めて僕から行動を起こさせてもらいました。「お付き合いしてください」と。
そうして無事(?)彼女ができました。
気になるであろうところ
ツイッターの頃から僕の発言には「唯一恋仲になりそうな奴」という人物が登場していたかと思いますが
その方ではありません。あれは僕のATフィールドを視覚的に提示する意味合いでの牽制、警戒でもありましたから
思い上がりのような物言いかとは思いますが、僕に関心がある方ほど歩み寄れない境界線を感じさせたかと思います。
恋仲の可能性を一切排除していきたかったのは先述の表現者として枯渇することへの恐怖が1つ。何よりも自分自身が輝いて見えるのだとしたら、それは幻想だよというような意志の提示でもありました。
だって本当に駄目な生活を人生を生きています。こんな奴に「(異性の意味で)好き!」だなんて言ってくる人がいたらそれは偽物です。何にもわかってない
その「恋仲になりそうな奴」というのも、すでに随分前からち○こ付きでしたし、外国にいるしで可能性が微塵もなかったので好き放題言えた、ということもあります。
そいつの耳に入ったところで、”大いなる借り”があるので知ったことではないという気持ちもありながら、そんなクラウドに「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶことで心を解消し、誰にも関わらず孤独に生きることへの準備を始めていたところでしたから。今回のことは僕にとっても青天の霹靂ではあります。
頑なに、僕自身ですらあり得ないだろうと断言してきたことですから、実際「お付き合いしちゃった!」というような浮ついた現状でもあります
だからこそ、
何度もなんども抱き締めて、実感していきたいと思います。
夢より現実が愛しい、と思い始めたのはまだここ四、五年の話です。
目には見えないのが幸せの定義。しかし触れられる幸せがあるなら、それがやっぱり素晴らしいし、望ましい。
「愛されるより 愛したいてな 冗談なんでしょう(♪ナミダ/アマオトの一節)」と言った言葉は僕の信念で
愛されることがどれだけ稀なことか、と思うんです。それは利害云々ではなく、直感的なところかと思うから。
彼女からは依存でもなく憧れでもなく落ち着いた”愛情”というようなものが感じられるのです。酸いも甘いもあるような。これは本当に稀有なことですよね。
愛し返して、愛し殺してみせたいと思います。全身全霊、誠心誠意。フラれない限り。押忍。
以上、報告でした。
p.s.
この前日に親父と揉めて返す刀に”もうすぐいなくなるからね。ごめんね”というような文言を伝えたのですが(こども)、
これを予期したわけではなかったけれど、言い得て妙、実家に帰る頻度は減りそう。
両親にもまた、僕のように手から離れた後の幸せを願うような愛情があるとするならば、1つ心配を取り除いてあげられるのではないか、そんな風にも思います。
そういうつもりでなく自殺なり放浪でもしようとしていたのでギリギリセーフでした。これで無心で働けます。