神経質になるなら、僕がツイッターで行っているようなスタンス(独り言)は、
きっとどこかで矛盾が起こるんだろうな。起こっているんだろうな、といつも思っている。
それは闇雲に。無責任に
日により、立場も変われば都合も変わる、というところを
言い訳にするのは簡単なんだけど、もっと簡単なことに気づいたのは、
それこそアマオト始動の時からはじめたツイッターからだと思う。
僕は大前提として、自分が言ったことをあんまり覚えていない。歌詞も覚えが悪いし、
初期衝動のような破裂する印象を、逃さないようになぞって言葉や音やに変換するのが常であるから
その陽炎のように消えていく原画を追うことはできないし
ネットやメモに残された過去の自分の言いぶりを改めて見た時にも「このときは何が言いたかったんだろう。何を見たんだろう」と感じたりさえする。
もはや他人様のような心境である。
表現はそもそも
退屈な時間、世界に打つ一手。
週刊雑誌すら待っていられないせっかちな自分を救うために「産み出すが易し」とはじめたことのように自覚しているから
そうして他人様の如く自分が乱立して、場合によっては対岸で僕を否定しにかかってくることは刺激的ですらある。
つまりは望ましい構図であったりするのだけど、
本当の意味での他人様、読者の皆様からしてみればやはり「矛盾」という言葉にて相殺され打ち消される瑣末なものに成り果てることはあるだろうと思う。
こう考えては貰えないだろうか
誰かの価値になれることは、先ずは脆弱な自分を救わねばならない僕にとっては二の次になりがちであるから
「もしよろしければ」というような遠慮がちな提案なのだけれど
「人間てのはそもそも矛盾し腐る生き物だ。ということを大前提に考えてみては如何だろうか」ということ。
思うように、思い描いた通りに自分の立ち位置を保てる人というのはそう居ないと思うし、
何より自分自身がそうである以上、その都度の変化に合わせた提案、苦し紛れの打開案を立てていくことが必要になってくる。
そうなれば僕のやり方もなかなかに的を射ていると感じている。
勿論、そのときに僕と全く同じルートを辿っている人なんてのがいるとは思っていないが、
場面変わって重なって「ああ、あれはこういうときの話だったのか」というようなサブリミナル効果を期待していたりする。
多くの方が同時に観察出来るSNSならではの効果を狙っているのだけれど、
芯がない、と見限られてしまうならまぁそれは仕方なくて、そういう方のところに行ってもらうが互いの幸せかなと思うので僕はいい。
漫画や物語のやり方
漫画や物語には多くの人物が登場し、まるで反対側からの信念をぶつけ合うことで1つの正解、または同時に成立する答えを提示してくる。
得てしてそうあるものだと思うのだ、真実は1つかも知れないが、解き明かし方は1つではない。
遠回りしようが無理矢理だろうが、目指すところに行きつけるなら失敗や、とてもスマートとは言えない道筋も必要になることもあるだろうから
僕は僕で、理に適ったやり方を取れているつもりでいる。僕が行ったり来たりして、1人何役もこなしているような心持ちであるということをこの記事では伝えておきたい。
と、まぁ自分自身が「忘れ易い」体質であることを悲観せず、それでも表現者でいたいと考えたときに
自分を肯定するべく、辿り着いたのがこの考え方。
かつてツイッターをはじめた頃から今でもその考えに執着出来ているのは、その無作為なマシンガンに
少なからず反応を頂けることからの自信であるのは、感謝しかありません。
押忍。