日々の中で、僕が無表情で過ごす時間は7割以上
ステージの上やライブハウス、友人たちの前では自分を俯瞰してしまうぐらいには
感情表現を振舞っている感覚があります。
本当とか嘘とか
そういう話をしたいわけではなくて、
単純にそれが適切と思ってそうしているだけで、その判断の根本は常に僕なのだから、僕は僕でしかない。
そこには嘘も何もないわけで、
あるとすれば気分だ。その付近の感情の揺れが
出来高を決めるものだと思う。
歳をとると泣きやすい
それが大袈裟でないと知ったのは25過ぎたくらいから。
自分の卒業式でもさっぱりしていたものだったけど、歳をとるにつれ涙腺が緩んできているのはまちがいなくて
さっきも言ったように人前に出ているときは感情表現が豊かになっていて、涙腺なんかも更に緩まっていると感じる
ステージで涙を流すことがカッコ悪いという人がいるが、僕はどちらかというと
ステージの上で嘘をつくのカッコ悪いと思ってしまう人なので、自分のコントロールさえ超越して出てくる感情の波には
「よし」とすら思えてしまう。ちゃんと歌えないから申し訳ないんだけどね。
これは「歌に心を込める」というイマイチわけのわからないことを念じ続けてしまった弊害だと思っている。
今回は涙の話だ
僕のブログなんていう木陰の隅に置き忘れられた雨に濡れた段ボールの切れ端みたいなものを
敢えて見つけて眺めてくれているような人は、きっと若者ではないと決めつける。
ならばわかってくれるのではないかなと訴えかけるのは「アニメで泣く」「漫画で泣く」ということ。
一昔前ならば「アニメは子供がみるものだ」という概念が当然であったように思うから
まだ僕の中にも恥じらいのようなものがあるんだけれど、最近の僕はこう考える。
「ああいうの作ってるのは全員オトナ」
ならば彼らにしてやられたのだから恥じることはないし、飲み会の席の打明け話のようなものではないのかと思う。
途端に無精髭と酒臭い息と、今にもしっぽりいきそうな男と女の様子が浮かぶ。しっかりとオトナ達である
そんなわけで
僕は自分の幼稚さを認めることなく感傷に浸り
その「涙」という希少な体験を余すことなく堪能し、日々の無表情かつ退屈な自分に
まだ人としての可能性(情熱的要素)を信じられるのかも知れないことに喜びすら覚える。字の如く、有難い。
因みに僕が主に涙をするシーンは、
主人公のピンチに仲間達が次々と駆けつけ、連続攻撃、または合体攻撃で悪を滅するようなシーンが多いですね。なんとも古典的。
しかしこの、可能性をまた感じてしまうことで副作用がありまして
「俺、何してんだろ」と我に返ってしまうんですね。
これがキツイです。
そんなことを思うたびに対処法として、アコギを持ってみたりして一曲作って眠る、ということをしています。
本当に応急処置ではありますが、そうすることでまだギリギリ未来への希望を捨てずに済みます。
気になった方は「Sound cloud 森 壯太」か「Youtube 森 壯太」で検索してみてください。
(リンクは貼らない)
期待はしませんように。