大人というのは空想上の存在だ。
という仮説。まだ30そこそこの人生、経験則からは断言できないのが悔しいが
これは多くの人間が感じていることではないかなと、ほぼほぼ間違いないと思っている。
20歳になった時
成人式、とはなかなかに無理やりな式だなぁとは当時も思ったことだが
思うに、そうでもして自覚を促す、もっといえば洗脳のような催しだ。
今後は空想上の彼らのように振る舞えよ、というものであると認識するが
それを通例として何となし考えなしに受け継いでいる年配たちが多くいるであろうこともミソ。
親たちはそれを感慨深く受け取り、そこで終了。このタイミングではどうなるものでもないと、経験則からは感じ取りながら
本人たちとのすれ違いもまた「そういうもの」だというくらいにしか説明ができなかったりもすると思う。
まがいもんのまがいもん
伝承されていくものは、そのまま伝承するだけでは薄味になっていくものだ
そこに新たなエッセンスを加えて、うまく転ぶかどうかはフレキシブル。運が良ければという感じだが
殆どの場合、そういう風に時代は変化しながら継がれていく。
しかし、思慮の足らない伝達というのは、指揮の低い集まりのような、サボることしか考えていない上司のような言動のような
本人には全くもって無意識な周りへのマイナスプロモーションになることばかり。
その異変に気付き、得てして誰かしらが持ち直そうと革命を起こすこともまた然り
それが起きないまま衰退し切って諸行無常。跡形もなくなるものはあるとは思うが
大人、というファンタジーもまた信仰のような想いがなければ偶像として成れの果て
くだらないと馬鹿にしていた学生時代の大人たちの程度に収まる。それではいけない
面白いことだが
当然のこと。出会ってきた大人により、人それぞれ大人というものの印象はまったくちがう。
それはそうだ。確かな人物像がない。あやふやであるし、本人たちにもその意思疎通、自覚はないに等しい。
それを日々、痛感するばかりなのだが
憧れるようなものであるなら、そうありたいと、そうでなければと大人しく、大人らしくなることを望んで臨んだ人生であったのかもしれない。
いや終わったようにいうのはよくないな。
都合よくあしらわれているな、と軽口のような教育には歯向かってしまったがために育ち方がぎくしゃくした僕だから
失敗作として携われるような伝え、教えは残したいと感じる。
それが洗脳、というようなものになりかねないとは感じながらも
迷いながら、疑いながらのそれらも含み、トータルして導いて本人が幸福になるような教育というものはないだろうかと
教育者ではないながらも、人に言葉を投げかけるような生き方をしている人間としては
常々、革新的な「気付き」を願って頭をひねる。
これは子供のようで大人のようで、しかしとどのつまり森 壯太という生き物でしかないなぁと感じる。
呼吸をするように死にたいと生きたいが入れ替わる日常を、どうにかして生きたいだけに落ち着けたとき
吐ける言葉もあるだろうなあ。
現実は立派にファンタジー。あやふやな空想で塗り固められている。なら、その物語はきっと、漫画のようにも展開するだろうという理屈なのだ。