貪欲、貧しい欲と書くそれは
得てして興奮の中にこそ垣間見える。
無気力の正体
生きていくには目標が要るものだとつくづく思うが、その目標に至ったとき、もしくは目標を見失ったときに改めて向かう未来へ反応する意味でも欲が要る。
無心、ゼロの状態というのもなかなかないが、動物には基本装備として欲が備えられている。
食欲、睡眠欲、性欲。一体誰が言い出したのかはわからないが、実際このどれもに常々振り回されているように思う。
語弊があると思うが、そのどれもに理屈はない。それに従って生き続ける理由もいまの僕には見当たらない。
そんなことを考えているとふと、無気力になる。
これではいけない
思春期ではないけれど、こういう人間なので、未だにいちいち鬱陶しい僕ではあるが
思春期ではないので、この問答が何も生まないことには流石に気がついている。
どうあれ生き延びることを望んでいるらしいこの体には、適度な栄養もいるし、それなりの褒美もやらなければならない。
そうして日々、わけのわからない興行、人間たちの戯れに携わっては賃金を頂き(アルバイトのこと)、何かをごまかし続けているのだが、
どうしていても訪れる問答や後悔、憎悪や自戒。現実とは裏腹に一刻も早く現状を打破したいという実情の伴わない欲。
これは貪欲というよりは強欲、な気もするのだけれど「貧しい」という言葉の方が自分の心境、表情には近いものがある。
それに押されて、泥臭い生き方も失敗も受け入れられるところはあるのだが、
そんな燃えるような気持ち、生活の中にいては、些細なものには気付けないものだな、と
僕は今日気づいてしまった。
皮膚がただれてしまっては
そっと触れるような行為は痛みですらある。
撫でてもらうのは気持ちいいことだというのは、猫を見ていても、犬を見ていても明らかなのに
焼けて腐って、皮膚がただれてしまっては、それに気づいてしまえば尚のこと、地獄のような思いだ。
その人は善意でこちらに何かをしてくれたにも関わらず、僕はそれを善意としては感じられない。
地獄絵図とはこの事だと思うのだ。
優しい、には同じ音に易しいという言葉がある。
優しさってのは柔らかくて簡単なものだ。強い力には敵わない
それをこじ開けるような労わりを言うならば「慈しみ」だとかそういう言葉、行為になるとは思うのだけれど
まるで坊主やシスターのように、身を呈してまでのそれはプラスマイナスでいえばマイナスのような気もしている。
優しさってのはコストパフォーマンスがいいのだ。本来は
何かを犠牲にしてまでの行為ではなく、そっと差し伸べる程度の行為や想い
それが上手く作用するならばその効果は倍々になる。
僕には今、その与えられる行為のすべてが逆効果にすらなっている。
先ずはこのただれた皮膚、もとい心を治すように努めたい。そうでなければ、せっかく与えて貰える幾つもの優しさを
プラスにしていけない。
そんな今日です。