昨晩はアマオト主催イベントでした。
僕がイベントを催すときに先ず考えるのは来場者は勿論の事、演者も、スタッフさんもまた救われるべきだということ。
勿論、完璧とは行かなかったでしょうけど、心配していたより、よッッッッぽど多くの笑顔を見せて頂けた。
ほんとに良かった。
眠気はまだ来ないが
下半身がバキバキである。
腹筋は勿論のこと、気を張っていたのか下半身の節々、あちこちが痛くて仕方ない。
日常では使わないものを駆動させたからなのだろうか。
昨夜は、日中から動いていたにも関わらず全然寝付けなくて最後に記憶にあるのは朝7:00の時計。
頭がぐーるぐるして「逃げたい!凄い逃げたい!」ってなってました。
わかってたことなんですけど、やっぱりライブってすんごくて。
自分らで企画しているのだから自分らが満足するのは当然
そんなことはないですよね。断じて、そうはいかない。
謙虚だとかそんな話でなく、往々にして自己を犠牲にしてこそ誰かを救いたもうことに通ずるものだから
そういうものだからと
相手を喜ばそうとするときには自分を削っていることが多いんじゃないでしょうか。
だから自分らの満足を望みながらも、尚且つ冒頭の皆さんの満足を目指すということをするのは
無謀にも思える。でも諦めたくはないのだ
それを最低限のことに考えたい。
何度も言っていること
僕はコンサートスタッフをやっていた。
「その日のイベントが何のイベントなのかわからない」そんな日ばかりの中で、賃金を目的にして足を運ぶ。
メインの舞台監督ですら雇われの人。スタッフチームもやっつけ仕事。演者は気分良さそうに帰って行くけれど
実のところ、そのロマンの1つも伝わってやしない。
自分がバンドをやりながら、そんなものを見てしまえば省みないわけにもいかない。疑心暗鬼にもなる
だからこそ突っ込む「ほんとにたのしい?」と。
ここを誤解したまま進んでいってしまえば、きっとパッパラパーが完成してしまう。
楽しんでいないときの顔を、楽しんでいるときの顔だと認識してしまえば
それは大いなる勘違いを生む。そんな孤独は最悪じゃないか。
それを孤高と呼ぶのかも知れないけれど、自分に重ねてしまえば悲しい気持ちにしかならない。
欲張りなのは承知の上
だからこそ今は、自分の手が届く範囲で動く。完璧を求めているわけではない。
フレキシブルなものもまた楽しい。でも、そのマイナスが、闇に葬られてしまうようなら違う。
そのズレもすれ違いも、伝え合えるような素直がいい。隠さないでいてくれたら
二の手でそれを補いに、謝りに走れる。これはとても大事なこと。そうしていくうちに最後には、きっとより良いところに行けるはずだ。
そう信じたい。
馴れ合いは最高
連れ合いは最高。そりゃほんの一遍で通じ合えるってのも気持ちいいよ。それは、都合がいいけれど、
やっぱり何度もなんども相対せるってのは理想じゃないですか。問題なのはそれが怠惰を呼びやすいってことだけ
じゃあそこを引き締めて
何度もなんども惚れ直させるようなコミュニティを築けたら、それって半永久的に安心していられるんじゃないかな。
夢みたいな話だ。でも何か手には触れている気がするの。
今日も自慢の人たちはやっぱり自慢の人たちだった。フロアもステージも。
ど頭からケツまで「いいんですか?」ってぐらい肯定的に対応してくれた。嘘みたいに
そんなことをしてる間にも、新しい仲間は増えていく。僕がここに居座っていても、旅人が訪れる。
ここにあるものだけでも、まだまだアイデアは出せるから、新しいものなんて、そうなくたっていいの。
ここ最近グルグルしていた気持ちはわかりきっていたことなんだけど1つの答えにたどり着いた。
ライブをしてしまえば、救われてしまう。秋の空よりも移り変わる我が心。
アマオトは6月で7年目に突入します。
相変わらずの中でも、新しいものは次々に捲き起こる。そんなにあっちらこっちら行かないでも
きっとまた笑える。そんな安心。今は見えてます。
安心して、お腹が空きました。気づいたら今日なんにも食べてませんでした。
気づかないくらいにエキサイティングな今日だった。有難いです。
有難う。