僕は記憶力がよくない
伴い、反省もなかなか生きない。
何故なのか考えてみたら、
頭の中では常に疑問
自分自身の直感に対しても疑問
世間にも疑問
決して確信を持てないまま、たゆたうようにしているから、
一度決まったことも、疑ってしまう
するとまた、忘れてしまい同じとこを行ったり来たりする。
頑固にならないように促されている
沢山の後悔がそうさせている。
これはこうあるべきだと思い込んだ果て、それを強いることで誰かを傷つけるのは叶うならば、金輪際二度と御免。尚且つ自分が傷つくのも避けられるのならそう願う。
「誰かがそう言うならばそうかも知れないな」と揺れてみる。結果、弥次郎兵衛のようにそこに居座っているような気もするけれど、それで殆どのことは受け容れられる。
寛容といえばそうだが、絶対ということはないものだという信念が、裏を返せば「頑固」にしていると言えばそうなのだが、僕としては揺れていたいのだ
結果として、たゆたうような自我が形成されているんだろうなと思う。
完全に忘れているわけではない
人間は脳みその何パーセントしか使っていないという話もあるぐらいだから、僕もきっと「使い方」が悪いだけで記憶は出来ているのだと思う。
事実、数年前に歌ったきりだったオリジナルの曲なんかを久しぶりに辿ると、スラスラと思い出すことがあったり
幼馴染との会話で20年以上前のエピソードや声色、空の色や匂いまで思い出されたりもするぐらいだ。
そんなだから、本人としては実は大して気にはしていない。どちらかと言えば気に入っている
忘れることで、何度も新鮮に感じられる日常があるならそれは願っても無いし
忘れた方がいいこともあるのを知っている。
利用する
オリジナルの作品を作る、なんて言っても殆どが応用だ。
若い頃はパクリという言葉に非常に敏感で、四方を塞がれたような感覚に苛まれたものだが、誰かに頂いたインスピレーションがあやふや朧げになって自分に溶ける(忘れる)のを待ってしまえば、それをオリジナルだと言い張ることが出来るようにはなった。
忘れっぽいことのいい点は作品作りにおいて生きる。色んな側面を削り取れるし、成り代わったかのように文言を捻れる。
悪い点はブレブレなように映ること。僕自身、そんな他人の言うことを覚えていないのだが、自分が言ったことも大して覚えていない。
というのも、上辺でものを伝えたのか気分で伝えたのかはわからないが、それが自分に残っていかなかったというならばそれはきっと間違いだったのだろうと思うからだ。
一概には言えないことばかりだから、その局面に於いてはということも沢山あるのだが、言質を取りたがる人というのはいるもので、僕のようなスタイルをとると、そうして見限られることも少なくない。
文言をしっかりはっきり覚える上に、自分をしっかり固定している人とは、そりゃあ反りが合わないだろうと思う。
でもそこにも1つ信念がある。
言質を探そうとするからには、その決定的な理由を探してでも僕を見限りたい気持ち/望みがすでにその人にあるのだと思うから
もはやこちらとしてもお手上げなのだ。万歳と言ってもいい。
その人にとっても幸せ。僕にとっても幸せな、いわゆるWINWINの光景でしかないので、
諸行無常。今日も僕は忘れていきたいと思う。