ここでいう味というのは、
味(趣)のあるという意味ではなく
味覚の味、に近い意味合いで書く。
記憶
記憶というのは本来、中々消えないらしい。
らしい、というのは実感がないようなあるようなで、言い切れないからである。
それでも「完全に忘れていた」と思っていたような記憶がふと蘇った時には
その話を信じてしまう。
きっかけさえあれば引っ張られてくるのだと思う。
1番しっくり来るのは「懐かしい」という心地がするときが、それだな。
もうすっかり忘れていた、という事も忘れていたような事が
ふっとそこに現れて、やや戸惑いながら『懐かしい』という感想を吐く。
後味
言葉には味がある、というタイトルの話をしていく。
あの言葉、この言葉、紙媒体の文字列のみの本は、
指で数えられるぐらいしか読んだ事が僕ですら
今の時代、ネットで幾らでも堅苦しいニュースからネタ記事、SNSでは人々の何の気なしの一言を目にする。
しかしネットや携帯電話で成り立つコミュニケーションになれると、実際にこの”体”を使って言葉を発することが減っているようにも思う。
目から通した言葉と、体を鳴らし、喉を通して感じた言葉ではまた違う
後者には後味がある。
生意気
支離滅裂、自分勝手、自暴自棄、そんな物体である僕という人生は
はたからみれば”生意気”と言ったものに終始するようにも思う。
提示されるものはすべからく疑いをかけ、何故そうなのか、本当にそうなのか、そう投げかけては
放っておけば成立しそうなものものを壊してきた。自分の心も壊してきた。
そんな僕の舌に残る最悪の後味というものがあるとするなら、
恐らく母親に言った「勝手に産みやがって」という言葉である。
これは、本心から言っていたとも思うけれど、未だに忘れられないのは、
それだけ自身も、タブーを感じて言い放ったからだと思う。
死ぬまで背負うべきであるし、なるべく忘れたくはないから、これからも定期的に話題にしたいと思って居る。
歌
僕は歌をうたってきた。
とは言っても人並み以上、歌好き未満程度のものだと思う。
それは結果がものがたっているが、それでも人一倍、言葉というもののチカラを感じて、目にして来たように思うし
人一倍、口にしてきた自負がある。舌の乾かぬ内から、言っちゃいけない言葉、たくさん言ってきた。卑怯者。
分析、とまではいかないまでも、取り扱いには人並み以上の理解があるように思う。
先ほどの母親に向けて放った言葉を帳消しにするにはどうすべきか、ということを言葉にするなら
僕がそんなことすら忘れて幸せに生きて居る様を見せつけるようなことが一つだと、暫定で考えては居る。
それには時間がかかるので、今はこれ以上言及することもないからさておき
歌にはなるべくそういう一応の答えに辿り着くヒントのようなものを挟み込みたいと思っている。
生意気だった僕が、誰の話も聞けなかったこと。幸せを認められなかったこと
それらをヒントにして、そんな奴を笑わせるような事を考える、その取り敢えずの結論が歌詞になる。
それをどうぞ、と音楽という皿に、音楽というセンスで盛り付けてお出ししている。
タニン様
当時の僕とは、今や対岸の、全くもって話の通じないところに
現在の僕は居るのかも知れない。
彼と話をしたいとは、しばしば思うことがある。でも、説得できる自信はない。
無下にしてきた幾つもの機会や、人や、努力を、何とか気持ち良く受け入れて、モノにしていってほしい。
でもそれは叶わないから、あちらこちらそちらで出逢うタニン様に、若人に、はたまた先輩や同輩に
彼を重ねて歌をうたう。
今では同じ事は思えない、感じられない、そうだね、とは言ってやれないけれど
未だに舌に、味が残る「僕も言ってしまった言葉」の記憶があるから
対岸に居るような人も、何だか他人様とは、他人事とは思えない。
わかるよ、とは言い切れないけど
また、未だ、無責任に
ふと耳に入るような処から
無関係な他人の距離でなら
もしかしてを信じられる気がするから
僕は歌いたい。
生きている意味は、無かった。
でも今はある。大切な人と、人達と、もう少しだけ一緒に生きていたいと思える。
たかが十数年でそれは、手に入れられてなかった。そういうことなんだと思う。