大器晩成、だとかそういうのとは
また違う”器”というイメージを使ってのお話。
なんのことはない思いつき
特に深い意味はない。
前フリだが、僕が歌詞を書くとき、一番調子がでるのは一つの像が浮かんだとき。
二次元よりは三次元の像が浮かび、尚且つそれが時間を追うごとに変化するようなものなら好ましい。
それを妄想にて観察し、その様をただただ書き記すだけ。
指定のメロディがメンバーからあるならば、それに合わせてその像や情景から当てはまる字数の単語やらを引っ張ってくる。
そんな風に、今回は”器”というものがぷかりと脳みそに浮かんだので、その話をする。
割れた器
器が割れている。これを食器だとしよう。
割れていたら、液体は注げない。何故ならこぼれ行ってしまうから。
お茶菓子ぐらいなら問題ないかも。
でも洗うときにはそのささくれなり、割れた尖りに指を怪我するかも。
たとえばそれが箱のようなものだとする。
宝箱のようなもの。密封されていれば、ホコリもそうはたまらないし、
綻びも多少は防げるかも知れない。
しかしやはり風穴が空いていたら、その限りではない。
直してみよう
器を直す。それはもはや原型を留めていないかもしれない。
しかし機能は回復する。それがどういうことかは、その器に寄せる思いによりけりあるだろう。
その補修は完璧だろうか。それとも応急処置程度?
また酷使してしまえば同じように綻びを見せるかもしれない。
そうなれば、雑には扱えないし、結局は以前と全く同じようには扱えないことになる。
しかしそれはいわば、大切にするってことかもしれない。
器とは何か
ボーカリストのようなロマンチストは、これを安易に「心」だとかいうだろう。
僕もそれしか思いつかなかった。
心に穴が空いていれば、せっかくの厚意も経験もすべてがだだ漏れて消えてゆく。
穴を補修した心は、傷をたたえて臆病になるとして
同じ失敗はしないように生きるようになる。それは補修前と大きく違う。
ただやはり以前のようなアクティブさは失われることと思う。
与太話
…と、
たとえば、こんな風に、そんなような与太話をその像から生み出し、学ぶことができる。
人は得てして素直ではないから、こうした比喩の表現の中から
“自分で見つけ出したような感覚”によって感銘を受けるほうが楽だったりする。
直接的な、頭ごなしの正論ではない、そういったこともあるよ、どう思う?といったような問いかけから
自らで答えを編み出すことができる。「これは誰に言われたことではなく、自分がそう感じた。」というように。
僕は、そう受け取ってくれるような作品をいつも提示したい、
がなかなか毎回そうはいかないから歯がゆい。
器の話をした
何故そんな像が浮かんだのだろうと、遡ってみると
それは結局、最近僕が痛感したような事実に戻ったりする。
「感謝(床/皮膚)をなくして幸福は感じ得ない。」そう強く、思う瞬間があった。
心の底に絶対的な床があり、あらゆることを着地させ検品するようであれば
恩義や学びを取り零さないのだな。そんなふうに感じた瞬間があった。
それが放っておいたらムクムクと”器の像”をなして頭に残った。
それは無意識なので、僕もまた、それが映画なり他人の作品を観ているときのような新鮮さで眺めていて、
素直に「面白い話だ」とワクワクして、こんな風に文章にしてみたりしている。
器の話でした。