予期せず、5日ぶりに帰宅したので
調子っぱずれのアコギをポロンポロン。
アコースティックギターという規模の世界
僕は絶対音感とは言わないまでも、
バンドマンならある程度は備わるような音感がいつまでも備わっていない。
いわゆる「相対音感」、その場で鳴っている(何の音/何て名称の音かはわからない)音に対して和をなす音を探ることは一般の方よりはすばやく感知出来る気はしているけれど
知識のように蓄えて音と音の関係性を理解しているわけではない。感覚、と呼ぶ方がしっくりくる(厳密にはどちらも知識と変わらないのだろうけど)。
故に、アコースティックギターのように放っておけばすぐに弦がたわんで音がズレていくような生楽器の
レギュラーチューニングが前後していても気づくことはない。それは複数のバンドメンバーの中でやってしまえば、不協和音を生むことになるので問題があるが、
僕が弾き、僕が歌う、という場面に於いてはあまり問題がなかったりする。
それはとても面白い話
これはつまり、全くもって同じ存在が
一方では絶対的悪であるにも関わらず、関わらないことで正義たる位置にも在れるという事実だ。
周囲に馴染めない、という状況は得てして相対的に見たときに少数派が当てはまることなのだが、
これはいってしまえば「少数派に対して、大多数が馴染めていない」ということでもあるわけだ。
それに気づいたからどうだと言われてしまえば虚しいが、絶対的悪というものにも、やや思い込みの気配が漂うではないかと
面白くなってしまうのである。
良識を重んじてる善人がもはや罪だよ
とはMr.Childrenの桜井さんがずっと前に明言している言葉ではあるけれど、
常識なんてのは或る一定のコミュニティに於いての協調性に習って生み出された、ある意味で言えばその場しのぎ、現状限りのルールのようなものであって
時代が移ればその効力、信ぴょう性、必要性が希薄になることは全然あり得ることだ。
蔓延してしまったからには、算数的リスク回避を考慮して安易に流れてはしまうけれど、
その場には必ずにもマイノリティを排除するということが起きている。それを「常識」という概念で考えずとして良い、というような傲慢を気づかずに行き過ぎるようなことは、賢いのかもしれない。
しかし、紛れもなく残酷。紛れもなく多勢でもって巨大なナイフを少数派に切りつけている感触(事実)を知るべきではないのかと思う。
話が肥大化していくのは僕のくせ
これを人は妄想というけれど、アコースティックギターのチューニングに習う人間社会の営み。
例えば高めのチューニングでいつも通りに弾き語ったら、僕の喉は負担を被ることもあるかも知れないが
普段からそのようにしていれば、そんな負担は些事。気づきもしないし、人一倍高音域に固執していた学生時代に培ったこの喉は、寧ろ燃えるところがあったりする
E(ミ)っぽい音を6弦で決めてしまえばあとは5フレを抑えて5弦にトレースしていく。アコースティックギター内ではそれが調和をなす。
常識なんてものは「必ずしも正しい」というようなものはなく「こう示し合わせておくと思考停止でもいいから楽だよね」程度のものなのだということを忘れてはいけない。
例えばデジタルな楽器で調律不要な楽器があったとしてもだ。突発的なセッションを行う際にはそのときに飛んでくる音を「よく聞き」対処することで賄える。
それには培った感覚が生きる。6弦のオープンが「E」である、というものは飽くまで予防線的知識。
目の前耳に向けてアプローチされている音に沿えるかどうか、それは打ち込んだデータには出来ないことだ。生き物だからこそ出来ること。
とはいえチューニングは大切
ここまで、恰もアコースティック側を庇護するばかりのように見えたとは思うが、そうではなくて
他世界と交流を果たすからには、自分の世界事態をチューニングすることも躊躇ってはいけない。そうなれば調和という現象でもって、世界は自分の皮膚を超えていく。
誰かのチューニングに合わせることで誰かとはチューニングが合わなくなるということもあるが、焦る必要も、覚悟を決める必要もない
なぜならチューニングはペグを捻ればすぐに出来るし、チューニングをそのままに行くならばフレットを半音ずらしてみたりしたらいい。
出音1発、失敗禁止、だなんて日常の中であるかい。あるとしたらそれはリハーサルを積み重ねて構わないようなイベント的瞬間ぐらいだろう。
その都度、その都度、ということ。
よく聞き、よく(自分の音を)伝えることだ。
「じゃあ弦が切れてしまったらどうなる?」というような妄想の延長も出来そうだが、今日はここまで。