夜中に帰宅し、眠るまでの時間。
僕の基本的なスタイルは眠気が訪れるまで、付き合いで始めたゲームのアプリをしながら録り溜めたアニメを見ること。
ながら作業がもはや絶対
1つのコンテンツでは脳みその隙間を埋められない。
何かをし”ながら”何かを、ということがマストな、現代病の真っ最中。真っ只中。末期。
決して効率は良くないし、内容は頭には入らない。もはや何の意味もないといって過言でないが、
何故なのかと考えれば「考えることを制御している」ことに他ならない。
目を多用することにより目を塞ぐ、満員電車のイヤホンのような、音で音を打ち消すような行為だと認識している。
娯楽という退屈
楽しそうでいいね。と言われたらそれは大いなる誤解である。
付き合いで始めたゲームはとってもつまらない。アニメもまさに惰性で消化していることが多々(もちろん全てではない)。
物作りをすることに、少なからず頭を置いて生きている人間としては敬意が足りないなと反省はするが、いまもって許しをこうほかない。
ドキュメンタリーに取り上げられるような悲惨な人生では決してないし、のうのうと生きている類の無意味な命だとは自覚している。
自覚しているからこそ、その自分の無意味と真正面向き合わないように日々隙間を埋める。
その隙間に引っ張られるたびに、希望的観測は聞いていられない耳になるし、
未来への約束は無責任に感じられ、出来たものではなくなるから、いま8月以降のライブは全部断っている。
躁鬱、という奴
本人としては理路整然。そりゃそうだろってな線路の成り行きで、躁にも鬱にもなっているけれど
はたから見ればきっと、切り取られた僕という人間は奇ッ怪に映るのだろうなと思う。
とはいえ波が荒いのは確かに。自分でもコントロールが効かない。だからこそ、
なるべくその波を抑え込もうと必死なのだ。
ほんの隙間、休める時間が訪れるなら1秒でも考えてしまう余暇は喜ばしくない
間髪入れず寝てしまうか、仕事があるならそれ以上のことはない。
電車移動の時間なんかは最悪だ。目に入る耳に入る様々な情報に振り回されてくらくらする。
それを埋めるべくリハの帰りに、映像を作る時間や手間は、僕も救うし、一部の人には喜んでもらえるそうだからとても有意義に思える
いまは淡々と、死んだように生きるが最善。心が動くようなことはなるべく避けたい。
希望的観測が訪れるような、浮ついた時間は少なくしなければ、また嬉しそうにしたその後、地獄のような顔をする自分をすぐさま思いついて見てられない。
心を殺したい。そんな自分が、ライブなんてしていいとも思わない
人に会うことを適切でないと考える。揺れてしまえば予期せぬ振り幅を生むものだから
こんなもの、楽しくなんてない。ただただ怯えているのだということを、ふと悔しくて書いているが
こんな自分を、創作意欲、作品作りにおいてのモルモット。いちサンプルとして俯瞰で眺めている自分の視線にも気づいているから
まだ大丈夫。