「誰かのために」
そんなことをするのは人間くらいのものだと云う。
不合理な行動、心理に導かれ身を運んで
傷ついて、嘆く。ふと俯瞰してみれば、実に間抜けな構図ではある。
美しいというロマン
それはいつでも不完全で不安定な危うさを孕む。
奇跡とでも呼びたくなるようなバランス感覚でそこに存在するものだから、人々は驚き感動する。
しかしそこに実益が伴うとは限らない。暇を持て余した人類の戯れ、工夫のような嗜好。
美しくあることがすべて、としてしまえばそれは偶像崇拝と変わらない。いざ抱きしめて欲しくても、抱きよせることも、叶わない。
これはどうしたって虚しいことだと僕は思う。
美德
いわゆるモラルやマナーの為すところ。
これはもはや自らの感覚とは言えないのではないか。直感、感情。現在の体調、バイオリズムとは違うところからの指示。
「こっちの都合も知らないで」という様相。
しかしこのすべては、自分の脳みそが勝手にカッコつけてやっているだけのこと。それに気づけない。
世間からの抑圧も、常識の強制も、実際に言葉としてぶつけられたことなんてそうそう無いのではないか。
どこかで自らが他者に向けたような要望を自らもハードルにして、枷を足すようなことをしていないか。
セルフコントロール
ここ最近の僕のテーマである。
僕も大概勝手に落ち込んでループにハマってしまう男であるから、これはやっぱり自戒。しかし
嘘や強がりでサイクルを生み出してしまった先に、予期せぬ光明が見えたりはする。それはあるのだけど、
ふと冷静になったとき、自分の緊急信号を無視してまでやることか。と気づくことが大事だと痛感する。
見栄を張るのは悪いことだけでは無い。現状に甘んじてしまわないように予防線を張ってのこともある。
でもそれが無意識のうち、当たり前になってしまえば知らず知らず退路を断つ形にしてしまう。
自分が発している信号。これは、先ず自分が気づいてやれなければ誰にも気づけないものかも知れない。
「誰かの為」はそのあとでいいと思うんだよ。